庶民信仰と法典寺

鬼子母神像
鬼子母神像

鬼子母神と十羅刹女

 かつて法典寺には鬼子母神と十羅刹女の尊像が安置され、 人びとの厚い信仰が寄せられました。

 鬼子母神は訶梨帝母(かりていも)、歓喜母、愛子母とも呼ばれ、もとは幼児を捕えて食べる悪鬼女でしたが、釈尊の教化によって改心し、のちには子女を庇護する善神になったといわれています。

 産んだ子供の数が500とも1000ともいわれており、このことから安産・保育の守護神として信仰されました。

 日蓮聖人は、この鬼子母神と十羅刹女(藍婆。毘藍婆。曲歯。華歯。黒歯。多髪。無厭足。持瓔珞。皐諦奪一切衆生精気)を大曼荼羅本尊に勧請して、法華経の流布する国土と信仰者を守護する神として、教義の中に位置づけました。

『文政寺社書上』によると、

法典寺に安置された鬼子母神像、十羅刹女像は「何レモ木立像 九寸」と記されています。

浄行菩薩像
浄行菩薩像

浄行菩薩

 菩薩は、悟りの境地を求めて自ら修行しながら人びとの教化・救済の誓願を立てていると言われています。

 法典寺の境内に安置されている浄行菩薩は、水徳による来世の衆生済度を誓願としており、病に苦しむ者がその疾患部を清めて祈願すると、たちまち快方に向かうという霊験顕かな菩薩さまです。

 

 弁才天

 江戸時代、法典寺の弁才天は俗に「芋洗い弁天」(『~雑記』参照)と呼ばれ、人びとの厚い信仰が寄せられました。

 横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』の中で

――寛文13年(1673)の絵図を見ると清徳寺境内内と思われるところが芋洗坂の道路に面して空き地になっている。他のもう一つの絵図(寛延3年・1750)には、その空き地の北隣に「弁才天」と記してある。これはおそらく法典寺の弁才天であろう。弁天さまには池が付きものであるから、この辺には必ず池があったと思われる。そしてこの弁天さまの池の水が芋洗の「お水」となったのであろう――。

 と記しています。  

 

弁才天はもと水神・農業神として尊崇されましたが、やがて智慧の神と結んで音楽・言語の神とされ、鎌倉時代以降になって弁財天と表記されて衣食住や財宝をもたらす神となり、のちに七福神に加えられるようになりました。