法典寺の現在地は、もと麻布領麻布村字北日ヶ窪とよばれていました。南日ヶ窪に対した字名で、「町」になったのは正徳3年(1713)に町奉行の支配地となったおりのことです。
江戸中期以降の文書には「北日ヶ久保町」「北日下窪町」と記したものがありますが、いずれも「北日ヶ窪町」のことです。
六本木から芋洗坂にくだる両側のまちがそれで、日ヶ窪の名は三方が山になった窪地であるため、住民が陽の下、つまり日当たりの良い方に居住したことから日南窪と名づけられ、のちに転訛して日ヶ窪となったといわれています。
法典寺は芋洗坂の西側に位置し、俗に「芋洗坂の法典寺」とよばれました。
この芋洗坂のいわれについてはいろいろな説があります。
(芋というと連想するのはジャガイモやサツマイモですが、ここいう芋はサトイモです)
「――毎年秋先、近在から芋を馬の背に積んできて、稲荷の宮の辺で毎日市が立ったことから名付けられた――」(『続江戸砂子』)
また「――青物問屋が多くあったので芋洗坂と唱えたと伝えた――」(『文政町方書上』)
といい、かなには芋を疱瘡(天然痘)とし、これを軽く済ますために神仏に祈願したことから、疱瘡神のそばの坂を芋洗坂とよんだとする説もあります。
ちなみに、法典寺をはじめとする諸寺社の疱瘡神が安置されていたとする記録はどこにもありません。
いずれにしても確証はなく、芋を沢山売っていたこの地に、清冽な水が湧き流れていたことから名づけられたものでしょう。
横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』の中で、寛延3年(1750)の絵図の法典寺と思われるところが空き地となり、その隣に弁財天と記してあることから、これを法典寺の弁財天であるといい、この弁財天の池の水が芋洗いの「お水」であろうと推察され、芋洗弁天とよんでおられます。
横関氏のいわれる「弁才天」は、現在の朝日神社をさすと思われますが、この神社は弁天社にのちになって稲荷社が合祠されたもので、『東京神社史料』によると
「――開基本寂法印 元文五年二月十二日寂、右古来之義者宮守斗ニ而相知不申候、享保三戌年より開基寂住居候――」
と記してあります。
法典寺が弁財天の祭祀を行っていたとすれば、この享保3年以前のことでしょう。
本末関係とは、織田信長の武力弾圧や豊臣秀吉の寺領検地による経済的基盤への圧迫にあっても、伝統的な勢力を保持しつつけていた仏教諸宗の僧と寺院を固定化することによって、幕府の支配体制の中へ組みこむことを目指したものです。
その最大の特徴は、末寺の本寺に対する絶対服従にあります。各宗内に本寺を頂点とした中央集権的な本末関係を編成し、幕府がその本寺を掌握し、支配することを目的としたものです。
また寺請制度とは、一般的には切支丹(キリスト教)の禁止のための制度といわれていますが、実際には疲弊した農民の逃散(ちょうさん)を防止するためであったといわれています。
法典寺は不受不施派に属していました。
元禄11年(1698)の「不受不施法乱」によって、法典寺の本寺にあたる小湊誕生寺の日明上人をはじめ、感応寺(現在の台東区・天王寺)の日遼上人、日饒上人が遠流となり、数多くの僧が処罰されました。
国主(権力)からの供養は例外とするという不受不施の立場を不純とし、あくまでも不受不施の信仰を守ろうとした僧たちは、自ら自分の寺をで、その傍(かたわら)に草庵を結んで布教活動を行っています。無抵抗の抵抗がこの時代に行われたわけです。
法典寺の過去帳によると、讃岐多度津(さぬきたどつ)藩 (京極家1万石)、府中藩(毛利家5万石)、福岡藩(黒田家52万石)の藩士たちが多く葬られていることがわかります。
寛永12年(1635)いわゆる参勤交替の制度が確立されました。これは幕府による大名統制策の一つで、戦国時代の人質交替の転化したものですが、この制度によって諸大名は藩士の一部を江戸に在府させる必要が生じました。江戸在府を命ぜられた各藩士は家族とともに江戸へ移り、江戸における菩提寺を定めました。
京極家、毛利家、黒田家の屋敷はいずれも法典寺に近く(法典寺の東に京極家、西に毛利家、黒田家は麻布溜池)、藩士たちが法典寺を江戸の菩提寺としたのでしょう。
境内墓地に「筑州の臣 重浜茂右衛門勝信(貞享2年12月15日歿)と刻した墓碑があります。重浜勝信は福岡3代藩主・黒田光之に仕えた武士です。
法典寺境内の鎮守堂に安置され江戸庶民に崇敬された客人大権現は、客人大明神ともよばれ三十番神に数えられています。
三十番神とは
1ヶ月30日の間、毎日交替で国家と国民を護る30の善神のことで、仏教での起源は最澄(伝教大師)が比叡山に日本諸国の神々を勧請して守護を請うたことにはじまるといわれています。
日蓮聖人が遊学中に、この三十番神がつぎつぎと姿を現したと伝えられ、日蓮宗では鬼子母神と並んで厚い信仰がよせられていました。
★境内墓地に加藤正次の墓碑が現存する。
正次は猛将加藤清正に使えた歴戦の士で、2代目忠広の傳役でもある。
清正の歿後、加藤家は断絶、忠広は出羽庄内(山形県)に配流された。
主家断絶、忠広配流、正次の死、いずれも寛永9年(1632)のことである。
大谷石で作られているようで、風化が進んでいます。
遠巻きにご参拝いただければ、と思います。
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